原田宗典 作品リスト

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さがや

作曲家/笛奏者 野田晴彦様


今回は、「第15回天益寺夜桜コンサート」を間近に控えた作曲家で笛奏者の野田晴彦さんにお話を伺いました。コンサートには、村長も出演しますよ。

―― 村長とは「東京壱組」のときからのおつきあいだということですが。

1986年からだから、もう20年近くになるのかな。僕はもともと大谷くん(=亮介/「壱組印」座長)と、高校の同級生だったんだよ。彼はサッカー部で、僕はブラスバンド部。クラスは違って、お互い顔は知っているという程度だったけど。全員の顔がわかるくらい、小さな学校だったからね。

その後、大谷くんは高校を卒業して東京へ、僕は大学を卒業したあと東京へ出たんだ。その間は特に交流はなかったんだけど、僕と大谷くんの共通の友達も大谷くんと同じ時期に東京へ出てきてて、遅れて東京にやってきた僕に、「野田、大谷って覚えてる? アイツ今、演劇やってるらしいで」って紹介してくれたんだ。同じように大谷くんには「大谷、野田って覚えてる? アイツ今、音楽やってるらしいで」とか言ってたみたい(笑)。それで会ったの。大谷くんが「自由劇場」にいたころだね。

そのころ僕は3年ほどやってたサラリーマンを辞めて、塾の先生をやってたんだ。やっぱり音楽がやりたくてね。で、まずはテレビやラジオに必要な音楽の作曲家になろうと思った。夜は塾の先生をやりながら、昼はいろんなところに自分の作った音楽を売り込んでたんだ。NHKの「みんなのうた」に採用されたのを機に、少しずつ作曲の仕事ができるようになった。

その後、大谷くんの芝居を観に行くようになった。そしたら85年ごろかな、大谷くんに「オレ、劇団を作ろうと思うんだけど、劇団の音楽、書いてくれやぁ」って言われたんだ。「かまへんかまへん。なんぼでも書いたるわ」って返事したの。「東京壱組」の旗上げ講演が「愛は頭にくる」で、その脚本を書いていたのが原田くんだったというわけ。それ以来のつきあいになるね。

―― 村長の書いた戯曲では、何が印象に残っていますか。

「幸せの黄色くもない石」を最初に、「これはいいな」と思った。で、ちょうど同じ時期だったと思うんだけど「スメル男」も、「これはいいな」と思ったね。物語作家の力をフルに出し切っているというか。「火男の火」とか「彼女の人生の場合」「彼の人生の場合」もよかったよね。

―― お芝居用の音楽は、どのようして制作されるのですか。

まず本を読んで、そして稽古場に行って、稽古を見せてもらう。全体のイメージとか空気感を一所懸命呼吸して帰ってくる。「こういう感じでお芝居を作ろうとしているのかぁ」「大谷くんの意図はこうかぁ」とかね。それを音楽で支えるのか、別のところから照らすのか、全然別のものをぶつけるのか、そういうことを考えながら作るんだ。

―― 「東京壱組」時代の大谷さんは、どんな感じでしたか。

うーん、最近は大分落ち着いたね(笑)。劇団の最初のころは本当にエネルギッシュだったし、とにかく怒ってた。自分に都合の悪い風を起こすヤツは全部蹴散らしてやるぜ、っていう感じで、いろんな人に怒ってたね。必死だったんだろうね。全部ひとりで引っ張っていかなきゃいけなかったし。みんなにあれしろこれしろって言いつつ、自分は主役もやって、宣伝、広報、客入れまでやって。あのころはまだ、今のように「大谷さんってスゴイ」なんて認識もされていないころだったから、必死だったんだね。

僕も自分でバンドを始めてみて、よくわかる。バンドを始めるまでは、「こういう感じの音楽ですね」なんて言いつつ、頼まれた音楽を書いてたんだけど、ひとりで全部曲を書いて、何人も束ねて、みんなにあれしろこれしろって言って、宣伝もしていると、「こういうことを大谷くんは10年も早くやってたんだな、すごいな」って思うよ。だから今僕は、大谷くんから10年遅れて怒ってるね。もう10年経ったら大谷くんのように落ち着くかな(笑)。

―― 「東京壱組」が解散してからも、大谷さんと仕事をなさっていたんですよね。

そうだね。沢田研二さん主演の「ザ・近松」とかね。「壱組印」ができるまでに大谷くんが演出していたお芝居は、ほぼ全部僕が音楽をつけてた。そのうち「原田宗典アワー」にゲストで出演するようにもなって。そうそう、僕が笛に出会ったのは、そのころなんだ。

―― そうだったんですか? もっと以前から吹いていらしたのかと。

笛を吹こうと思った直接のきっかけは、96年に友達のライヴでピアノを弾いてって頼まれたときのこと。打ち合わせをしてるときに、「この曲のイントロにリコーダーが入るとえぇんとちゃう?」って言ったの。すると「誰が吹くん?」って言われたから、「俺が1500円のヤツ買ってきて吹いたるわ」って、それが最初。もちろん今まで吹いたことなんてなかったんだけど、ブラスバンド小僧だったから吹きモノに対する拒否反応はなくて。ブラスバンド小僧の血が騒いだというか、このことがきっかけで「本気で笛やろう」と思った。それから、もう8年になるんだね。
ちょうどそのころ、「チーフタンズ」というアイルランドのバンドのCDにゲスト参加していた、若きスペイン人のバグパイプ奏者が吹くリコーダーを聴いたの。ニュアンス超豊かで色っぽくてね! リコーダーに対するイメージが覆される衝撃があった。「リコーダーでこんなことできるんだ!」って。そんな「事件」も重なって、「本気で笛やるぞ」にさらに火がついた、と。作曲だけをしてきたわけだけど、だんだん自分でも何かやりたいな、って思うようになってきてたこともあった。演奏家として何かできないかなって。「このまま50歳になって……。どうなんだろう? 僕は音楽家として、楽しくやれているだろうか……?」といったことは時々考えていたし。

―― 50歳という年齢に、節目のようなものを感じていたんでしょうか。

いや、単にそのころ僕は40歳ぐらいだったから、そこから10年後ってことで50歳を考えていただけなんだけど(笑)。作曲でずっとがんばってきて、仕事も軌道に乗っていたときだったからこそ、節目というものを意識できるようになったのかもしれないね。
作曲家の仕事というのは、いろんな曲を作って、演奏者に演奏してもらうわけだけど、演奏を聴いていて「なんかちょっと違うんだよな」「もっとこうして欲しいんだよな」と思うことがあったんだ。それを演奏者の方に伝えても、どうも靴の上から足掻く感じがあって。もし、演奏者として演奏できるようになったら楽しいんじゃないか? と思うようになってきてたんだ。ただ、忙しさにかまけて何もしてなかったんだけどね。そんなときに、さっきのライヴがきっかけで、「これだ!」って思ったの。

で、やるとなったら、一種類の笛だけやるんじゃなくて、いろんな種類をやってみようと思った。もう40歳を過ぎていたし、フルートや篠笛だけをマスターして極めるというよりは、僕は自分で曲が書けるんだし、それぞれの笛に合った曲を書いて、自分で演奏するようにしようと思ったの。たとえばケーナを持ったら、お決まりの「コンドルは飛んで行く」を吹くんじゃなくて、その笛に合った音楽を自分で作曲することができるんじゃないかって。それが一番大きなモチベーションになったと思う。

そこからはもうひたすら練習。やっと人前で吹けるようになったのは3~4年前ぐらいかな。いろいろ大変なこともあったけど、やったことがとてもわかりやすい形で返ってくるのがいいね。僕のライヴを聴いて「ぜひ一緒にライヴをやろう!」と言ってくるミュージシャンがいたし、思いがけない人からファンレターをもらって友達になることができた。それに笛を吹くようになってから出会った人には、おもしろい人が多いんだ。音楽を通してちゃんと表現しているな、という実感がある。音楽家としてハッピーだと思うと同時に、これからが正念場だな、という気もしているけどね。

―― 「第15回天益寺夜桜コンサート」が間近にせまっています。このイベントに参加されることになったきっかけは?

最初は知り合いから、「大宇陀町っていう、すごくいいところがあるんだ」って言われて、「本当に?」と思って行ってみたんだ。そしたら本当にものすごくいいところで。何もないただの田舎なんだけど、自然の息吹をすっごく感じたんだよね。

あと、このコンサートを主催している地元の人たちがとてもいい人たちだったということもひとつ。自分たちの村を愛している。「けっ、こんな村」なんて言う人がよくいるけど、大宇陀町にはいなかったんだ。それに自分たちがどれだけすてきなところに住んでいるかということがよくわかっている。それが僕にとっては新鮮だったね。ちなみに僕が初めてステージで笛を吹いたのも、「夜桜コンサート」なんだよ。

―― 今回のコンサートで、野田さんのバンドの新しい挑戦はありますか?

全部新しいよ、今回は(笑)。バンドのメンバーもがらっと変わってるし、今年は例年のようなお祭りというよりも、コンサートらしいコンサートになると思う。晴れてくれたらいいね。去年は雨が降って、近くにある文化会館で演奏したんだけど、やっぱり外で「寒い寒い」と言いながら演奏する方が風情があるし。春なんだけど山の上だから寒いんだよなぁ、あそこ(笑)。

―― コンサートには村長も、「醜い花」の朗読で参加します。野田さんはこの「醜い花」に曲をつけておられますが、最初に読まれたとき、どのような感想を抱かれましたか。

好きなところはいっぱいあるんだけど、冒頭の「うす紫の湖」っていう設定から来る空気感が、僕から見てすごく自然な感じがした。僕も曲を作ってるから、「うまくできてるけど自然じゃないもの」に対する直感的な拒否感があるんだ。テクニックが透けて見えると「うまい、けど、なぁ……」って思っちゃうし。もちろんテクニックは大事なんだけど、僕の場合でも、一所懸命考えてできたものよりも、何かが降りてきて気がついたら2時間で書き上げていた曲の方が、みんなに伝わるってことがある。「醜い花」も、そういう類に属する作品だと思う。自然さがパワーを持っている、というのをすごく感じたね。

―― 村長本人については、どういう印象をおもちですか。

うーん、やっぱり“純粋”、これかな。真面目っていうよりは“純粋”。「小林秀雄先生来る。」を作るときに、毎日小林秀雄先生の写真にお供え物をしていたところとか、供えるのを忘れたときに「昨日お供え物をするのを忘れちゃって、先生に怒られるよ~」と言っていたようなところは、ホント純粋だと思うなぁ。

―― これからの村長に、何を期待しますか。

僕の場合、みんなが「野田さん、いいもの作ったね」と言ってくれるようなものを作ったあと、それを越えるものを作るっていうのが、次のプレッシャーになるの。「醜い花」は原田くん自身にも「すごいものが書けた」という自負があると思うし、僕も見ていてそう思う。だからそれを越えるものを書くというのは、とてもしんどいことだと思うのね。だけどそれを乗り越えていってもらいたいと思うよ。

―― 最後に、コンサートへの意気込みをお願いします。

お寺が燃えて5年目になるんだけど(※)、そういう意味で地元の方々も節目のように感じているし、僕も新しいバンドだし、笛もようやくうまくなってきたように思う。聴いた人に「イエイ!」って言ってもらえるようなステージになるんじゃないかな。楽しみにしといてください。

※天益寺の本堂は、1999年に不審火により焼失しました。コンサートには本堂再建に向けた復興支援の意味合いもあり、収益金は再建のための資金にあてられます。

2004年3月25日 収録