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スペシャル
『イノック・アーデン』を語る

『イノック・アーデン』は、イギリスの詩人アルフレッド・テニスン(1809-92)により1864年に書かれた、哀れな水夫イノック・アーデンの物語詩です。この物語に惚れこみ、みずからの手で訳してみようと決意した村長は、月日をかけて一歩一歩、テニスンの詩世界を歩いていきました。新たな命を吹きこまれ、発行のときを迎えたこの作品への想いを、村長が語ります。
最初の出会いは中学生のとき
病院の待合室には、よく少年少女向けの雑誌が置いてありますよね。中学生のころに通っていた歯医者にもそうした類の雑誌があって、パラパラとめくっていました。そのなかのひとつに翻訳ものの文章を載せていた雑誌がありまして、たまたま読んだのが、物語風に書かれた「イノック・アーデン」でした。
ごくごく短いものだったんですが、とても心に響く物語で、読み終えたら涙が止まらなくなってしまいました。この号泣した思い出とともに、「イノック・アーデン」という題名は、時が経ってもはっきりおぼえていました。
30代もなかばに差しかかったころのことでしょうか。何気なく文芸評論の本を読んでいたら、「夏目漱石も絶賛した『イノック・アーデン』……」と書かれた箇所が、ぱっと目に飛び込んできました。「中学生のころに出会ったあの物語か?」と、ちょっと興奮です。「夏目漱石も褒めていた」という事実も手伝って、また読んでみたくなってしまいました。これはきっと岩波書店だ、とアタリをつけて編集の坂本くん(当時『百人の王様/わがまま王』を担当)に尋ねてみたら、まさにそのとおり。20年ぶりの再会を果たしたわけです。
「ハーモニーの詩人」の仕事を、耳で味わう
アルフレッド・テニスンという人は詩人なので、原文は詩の形になっています。押韻も非常に美しい文章です。日本でも明治から昭和の戦前くらいまでは、多くの人々がこの物語を訳してきていたのですが、この70年近くは誰も訳していませんでした。このまま忘れ去られてしまうのは、あまりにもったいない。だったら、つたないかもしれないけれども僕が翻訳してみよう、と思い立ったのです。
翻訳してみることで、テニスンという人が「ハーモニーの詩人」であったことをあらためて実感しました。韻を踏むことも大事だけど、それ以上にリズムやハーモニー、聴き心地を大切にしているんですね。さらに、もともと朗読のために書かれた物語であったということも知りました。1800年代なかばに書かれたものですから、イギリスでもまだ字を読むことができない人が少なくなかった時代です。いわゆる「吟遊詩人」のような人々が、地方の資産家の邸宅の応接間に立ち、この物語を朗々と朗読したのでしょう。聴いてもらうことによって楽しんでもらった、そういう物語なんです。僕も、声に出して読みながら書きました。現代でも同じように、ぜひ耳で味わっていただきたいなと思います。
人が生きていくのに、物語はいったいいくつ必要なのでしょうか? 世の中に物語はたくさんありますが、もしも、物語をたったひとつだけ選び、たずさえ、生きていかなければならないのだとしたら、僕は「イノック・アーデン」を選びたい。そう思います。
※『イノック・アーデン』は、2006年10月4日に岩波書店より発売。




